蔵の町・須坂に「墨坂神社」が二つもあるワケ

蔵の町・須坂に「墨坂神社」が二つもあるワケ

信州北部、土蔵造りの町並みが残る須坂市を歩くと、わずか2 kmほどの範囲に 芝宮墨坂神社八幡墨坂神社 が並び立っているのに気づきます。
――実はこの2社に、奈良県宇陀市の 墨坂神社(本宮) を加えた3社だけが、全国に点在する “墨坂神社ファミリー”。

「どうして奈良と信州の片田舎にしかないの? しかも須坂には二社?」
そんな素朴なギモンを、史料と伝承を手がかりにひも解いてみました。

1 そもそも墨坂神社とは

  • 創建は崇神天皇9年(伝・紀元前90年頃)
    大和國に疫病が流行した際、天皇の夢枕に「赤い盾と鉾でわが神を祀れ」と告げたのが墨坂神。祈念すると疫病が鎮まり、「日本最古の健康の神」として信仰を集めました。墨坂神社
  • 御祭神墨坂大神(すみさかのおおかみ)。荒ぶる疫神を鎮める厄除けの神格で、古代には大和盆地東口の“関所”として病や災いの侵入を防いだといわれます。墨坂神社

2 奈良から信濃へ――白鳳2年(647)の「勧請」

律令国家が地方支配を整える中で、中央の有力氏族や役人が各地へ赴任・入植。その際、氏神を一緒に連れて行く=勧請(かんじょう) することが一般的でした。

  • 須坂の芝宮墨坂神社の社伝によると、白鳳2年(647)に大和国宇陀郡から神霊を勧請したのが始まり。信濃国司や開拓にあたった東国豪族が、疫病除けの守護神を必要とした可能性があります。ウィキペディア

この時点で「信濃の墨坂神社」は一社(芝宮)のみ。ところが後世、もう一つの分霊社が誕生します。

3 須坂に2社ある理由 ――“芝宮”と“八幡”

芝宮墨坂神社八幡墨坂神社
創建白鳳2年(647)勧請年代不詳(中世以前と推定)
旧社格県社県社
特色須坂藩主が篤く崇敬/蚕糸・商工の祭礼が盛ん氏子は旧小山村中心/八幡宮を合祀後、寛政2年(1790)に“墨坂”へ改称
例祭9月14日(芝宮祭)9月17日(例祭)

2社並立の背景

  1. 氏子区域の分化
    江戸期に須坂藩が町場(芝宮)と農村(八幡)を行政的に分けた結果、両地域がそれぞれ総鎮守を望んだ。
  2. 御祭神の“多機能化”
    八幡宮などを合祀し、武運長久や産業振興までカバー。守り神の役割が細分化され、分社を許容した。
  3. 社号復古運動
    近世後期、神社名を古代式に戻す機運があり、八幡宮も「墨坂神社」を名乗るようになった(寛政2年)。ウィキペディア

4 “須坂”という地名とのリンク

地元には「須坂(すざか)は“墨坂(すみさか)”が訛ったもの」という説も。

  • 芝宮社の文献にある 新抄格勅符抄(781年) で神封が与えられた記録や、延喜式神名帳 に信濃国高井郡「墨坂神社」の名が見えることから、神社が先にあり、地名が後に付いた可能性が高いとされています。Skima信州-長野県の観光ローカルメディア

5 なぜ“3社”止まりなのか?

  • 疫病除け=交通の要衝に限定配置
    墨坂神は古代大和への“東の玄関口”を守護する神格。奈良(畿内)と東山道(信濃)という主要ルートの ゲートにだけ置けば十分 という発想だった――と解釈できます。
  • 氏族ネットワークの範囲
    畿内の中央豪族(科野国造系など)が移住・開拓したエリアが、ちょうど宇陀⇄須坂ラインに重なっていたため、範囲外へは信仰が広がらなかったとする研究もあります。ウィキペディア

6 参拝&散策ヒント(ブログ向けミニ情報)

  • 歩いてハシゴ! 2社は徒歩20~25分。町中に蔵造りの商家・味噌蔵カフェが点在し、途中でランチや甘味も楽しめます。
  • 芝宮の秋祭り(9/14)&八幡の例祭(9/17) は、獅子舞や屋台が出てにぎやか。連泊して“墨坂ウィーク”を体験するのも一興。
  • 奈良本宮 へ行くなら、大和榛原駅からバス5分。境内はこぢんまりしつつも緑深く、“健康長寿”のお守りが人気です。

まとめ

疫病を鎮めた古代奈良の守護神が、
飛鳥の世に信濃へ渡り、
江戸時代の町割りを経て今も2社に息づく――

たった3社しかない「墨坂神社」の配置は、古代交通路と人の移動、そして地域社会の発展 を映し出す生きた史料でもあります。
須坂を訪れたら、蔵の町歩きとあわせて “健康の神さま” へのお参りをぜひどうぞ。

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