細部まで華やかに飾られた須坂祇園祭の神輿
2026年7月21日、須坂の夏を代表する須坂祇園祭(墨坂神社弥栄社祭)の「天王おろし」を訪ねました。朝の芝宮墨坂神社には、神職や各町の担い手が集まり、金色に輝く神輿を囲んで厳かな神事が進みます。華やかな笠鉾巡行の奥にあるのは、疫病や災いを町から遠ざけ、地域の無事を願う切実な祈りです。

境内の社殿と赤い鳥居。須坂祇園祭は毎年7月21日から25日まで行われ、初日の「天王おろし」で弥栄社の神を神輿へお迎えし、最終日の「天王あげ」で再びお還しします。須坂市の資料では、祭りは江戸時代中ごろに始まり、文政13年(1830年)ごろには現在に近い形になったと伝えられています。

細部まで豪華に飾られた神輿は、祭りの中心です。牛頭天王(ごずてんのう)を町へお連れし、その威力によって疫病や災厄を鎮めるという祇園信仰のかたちが、ここ須坂にもはっきりと息づいています。
京都・祇園祭へつながる疫病除けの祈り
京都の祇園祭は、貞観11年(869年)、都をはじめ各地で流行した疫病を鎮めるため、当時の国の数にちなむ66本の矛を神泉苑に立て、祇園社(現在の八坂神社)から神輿を送った祇園御霊会に始まると伝えられます。当時は、非業の死を遂げた人の霊「御霊」が疫病や災害をもたらすと考えられ、その霊を慰め、災いを鎮める祭礼が各地で営まれました。
八坂神社の祭神・素戔嗚尊は、神仏習合の時代には牛頭天王とも重ねられ、疫病除けの神として広く信仰されました。須坂の弥栄祭は、京都の巨大な山鉾をそのまま移したものではありません。疫病退散を願って神輿を迎え、町を巡り、地域全体を清めるという祇園祭の根本精神を受け継ぎながら、信州の町衆が独自に育てた祭りです。

神輿の前で執り行われる神事。白装束の担い手が整列し、神職の祝詞に耳を傾ける光景からは、巡行が観光行事である以前に、町の安全と人々の健康を祈る祭礼であることが伝わってきます。
動画では、朝の境内に張りつめる静けさと、神事を見守る人々の息遣いまで感じられます。写真だけでは伝わりにくい、神職の所作や参列者の動きにも注目してください。
京都から須坂へ、そして須坂独自の祭りへ
須坂市の祭礼資料によれば、中世に大岩郷を治めた須田氏が武運長久を祈り、疫病を治す神として牛頭天王を勧請し、京都にならって本郷地区に上社・下社を造営したのが信仰の源流とされます。江戸時代になると神輿が日滝から須坂の芝宮へ担ぎ出され、弥栄社として祀られました。京都・八坂神社の系譜が、地域の歴史や町組の力と結びつき、須坂祇園祭へ育っていったのです。

装束の色や役割の違いも、祭りを支える多くの人の存在を物語ります。神事を担う人、神輿や笠鉾を動かす人、巡行路を整える人。それぞれの役目が重なって、数百年の伝統が今の一日へつながります。
神輿が境内を離れ、町へ進む場面です。神を一時的に社殿から町なかへお迎えし、氏子区域を巡って災いを祓う――この「神輿渡御」は、京都の祇園祭と須坂を結ぶ大切な共通点です。

菅笠と揃いの装束で待つ各町の人々。祭りを今日まで伝えてきた主役は、特別な誰かではなく、毎年集まり、役目を引き受けてきた町の人たちです。世代を越えて受け渡される経験そのものが、弥栄祭の文化財としての価値を支えています。
二段の笠鉾に刻まれた町衆の美意識
須坂祇園祭では、牛頭天王を乗せた神輿を先頭に11基の笠鉾が巡行します。笠鉾の頂部には災いや疫神を招き寄せる「依代」があり、笠の下には二段の帽額(もこう)が取り付けられています。京都の祇園祭にならったとされながら、この二段構成は須坂で独自の発展を遂げた全国的にも貴重な姿です。笠鉾と屋台には各町の意匠と誇りが込められ、町家文化の豊かさを今に伝えています。
動画では、赤い帽額を揺らしながら笠鉾が進み、後に続く人々が歩調を合わせる様子を見ることができます。大きさだけでなく、依代や布の文様、町ごとの違いを見比べるのも須坂の笠鉾巡行の楽しみです。

神社に集う大勢の人々を見ていると、祭りは過去を保存するだけの行事ではなく、町の記憶を毎年つくり直す営みなのだと感じます。疫病除けから始まった祈りは、健康、地域の安全、子どもたちの成長を願う心へと受け継がれてきました。
京都から遠く離れた信州須坂で、祇園信仰は独自の笠鉾文化を花開かせました。豪華さの奥にある祈りと、祭りを支える人々の姿に目を向けると、弥栄祭の風景がいっそう深く心に残ります。
来年もまた、この町に天王さまを迎える朝が訪れますように。 受け継がれてきた祈りが、次の世代へ静かにつながっていきますように。
