本堂正面。中央に三つ葉葵、大屋根の棟に六文銭が見える
2026年9月7日、長野市の稲里周辺を訪ねる散歩で、城住山長徳寺に立ち寄りました。正式な所在地は青木島町大塚。住宅や田畑のある日常の風景のなかに、山門と鐘楼が落ち着いた姿を見せています。今回いちばん気になったのは、本堂に飾られた三つ葉葵と六文銭でした。徳川家と真田家を思い浮かべる二つの紋が、どうして同じお寺にあるのでしょう。写真と動画を見返しながら、この土地の歩みをたどってみました。

参道の脇には稲の緑が広がり、その向こうに瓦屋根が重なります。遠くの有名寺院へ出かけなくても、身近な道の先に歴史の入口がある。そんなことを感じさせる眺めです。門だけを目指して急がず、周囲の家並みや畑とのつながりも眺めると、長徳寺が地域の暮らしと隣り合っていることがよく分かります。
城住山長徳寺――川中島の戦乱をくぐったお寺
浄土宗の公式寺院検索には、山号「城住山」、院号「光明院」、寺号「長徳寺」と掲載されています。本尊は阿弥陀如来。長野市内には同じ名前の寺院もありますが、今回訪れたのは青木島町大塚の浄土宗寺院です。門前の「浄土宗」「長徳寺」の石柱、本堂の「城住山」の額が、資料と目の前の風景を結び付けてくれます。〔浄土宗・寺院情報〕

長野市誌によると、長徳寺はもと町田氏の大堀館内にあり、川中島合戦で壊滅したと伝えられています。その後、元亀元年(1570年)に創建されたという由緒が残ります。開山は城誉旭翁、開基は白誉善生道空。今日の穏やかな境内の背後には、戦乱による断絶と、信仰の場をもう一度築こうとする歩みがあったのです。
さらに宝暦13年(1763年)には十一世洽誉が堂宇を再建し、明治7年(1874年)には青木島小学校の前身となる知達学校が置かれました。祈りの場所が子どもたちの学びの場所にもなったという記録は、お寺が地域の拠点であったことを物語ります。ただし、この再建年をそのまま現在の本堂や装飾の年代とみなすことはできません。建物の改修と紋の取り付け時期は、別に確かめる必要があります。〔長野市誌・青木島の寺院〕
山門から本堂へ進む様子を動画に収めました。門の向こうに参道が延び、石灯籠や石仏、木々が少しずつ近づいてきます。一枚の写真では伝わりにくい建物どうしの距離や、屋根を見上げる感覚も、歩きながらの映像ならでは。最後に本堂を仰ぐと、曲線を描く屋根と金色の紋に自然と目が向かいます。
本堂で見つけた三つ葉葵と六文銭

本堂正面の写真を見ると、向拝の屋根の中央に、円の中へ三枚の葉を収めた葵紋があります。その上方、大屋根の棟には、六枚の銭を上下二段に並べた紋が左右に配されています。よく知られた紋が、一つの建物のなかで上下に並ぶ光景です。木の色や屋根の線を楽しんでいた視線が、いつの間にか歴史上の人物へ向かうのが面白いところでした。
まず大切なのは、「二つの紋が見える」という観察と、「誰が、いつ、どのような理由で付けたか」という由来を分けることです。今回確認した長野市誌、自治体の史跡案内、浄土宗の寺院情報には、長徳寺で両紋を採用した直接の経緯までは記されていませんでした。したがって、徳川家が本堂を寄進した、真田家から門を移築した、両家の菩提寺だった、といった説明を、この写真だけから断定することはできません。
「真田対徳川」だけでは見えない、松代真田家の歴史

黒い門扉に浮かぶ金色の六文銭は、近くで見ると、中央の四角い穴までくっきりと表されています。真田家といえば、徳川軍と戦った真田信繁、いわゆる幸村の姿が浮かびます。そのため葵紋と六文銭の組み合わせを、敵同士の紋が並ぶ不思議な景色と感じるのも自然でしょう。しかし、真田家の歩みは一つではありませんでした。
上田市の真田氏資料では、信繁の兄・信之は家康に仕え、関ヶ原の合戦でも父昌幸・弟信繁とは別れて徳川方に属したと説明されています。元和8年(1622年)には松代十万石へ移りました。つまり、江戸時代の松代真田家は、徳川の政治秩序のなかで領地を治めた大名家だったのです。二つの紋は、歴史を長い時間の流れで見れば、必ずしも対立だけを意味するものではありません。〔上田市・真田信之〕
六文銭そのものにも、戦場の勇ましさとは別の顔があります。上田市の解説は、正式には六連銭といい、死者に六枚の銭を持たせる習俗や仏教の六道の考え方と関わると紹介しています。家紋に採用した事情には複数の見方があるため、「決死の覚悟」だけに意味を限定しない方がよさそうです。供養の場でこの紋を見ると、生と死、祈りという仏教的な背景にも思いが向かいます。〔上田市・六文銭の解説〕
葵紋から考える浄土宗とのつながり――由来は今後の課題
一方、徳川家と浄土宗の間には、よく知られた歴史的なつながりがあります。東京の浄土宗大本山・増上寺は徳川将軍家の菩提寺で、境内には歴代将軍らの墓所があります。この事実は、浄土宗のお寺で葵紋を見る際の背景を考える手掛かりになります。ただし、「浄土宗だから葵紋がある」と一律に説明できるわけではなく、増上寺の由緒を長徳寺にそのまま当てはめることもできません。〔増上寺・徳川将軍家墓所〕

山門の屋根にも目を向けてみます。鯱や獅子を思わせる飾り、軒先に繰り返される巴の文様など、細部は実に豊かです。円形の飾りがすべて家紋というわけではありません。形を一つずつ見分けながら眺めると、建築装飾そのものの楽しさも広がります。
今回の問いへの答えを整理すると、松代真田家と徳川家は江戸時代には主従関係にあり、徳川家には浄土宗との深い縁がある、という背景までは確認できます。しかし、長徳寺の両紋がそのどの縁を表したものなのかは未確認です。棟札、修理記録、寺に伝わる由緒などを確認できれば、もう一歩踏み込めるでしょう。分からない部分を物語で埋めず、次の訪問で伺いたい問いとして残すことも、歴史散歩の楽しみだと思います。
町田兵庫正之と大堀館――須坂にもつながる土地の記憶
長徳寺には、町田兵庫正之の墓があることが長野市の史跡案内に紹介されています。近くの大堀館は町田氏の居館とされ、弘治元年(1555年)の第二次川中島の戦いで武田信玄が本陣とした場所です。長徳寺の由緒に大堀館が登場するのは、この土地の中世の歩みと寺院の歴史が重なっているからなのです。
境内を巡る動画では、石仏や小さな像、覆屋の下の石塔などが目に入ります。ただし、今回の映像に写る石塔を、銘の確認なしに町田正之の墓と決めることはしていません。由緒を知ることと、目の前のものを正しく見分けること。その両方を大切にして歩きたい場所です。
市の解説によれば、正之は武田氏に仕えて軍功を挙げ、現在の須坂市福島にあたる高井郡福島郷にも領地を得たといいます。須坂から歴史を訪ね歩く身には、長野市のお寺で「福島」の名に出会うのが印象的です。また、大堀館跡が更北中学校の校地となる際、正之夫妻の墓は長徳寺へ移されたとされています。戦国の館、寺院、学校が、土地の記憶をそれぞれの形で受け継いでいるのですね。〔長野市・町田兵庫正之の墓〕
石仏とたぬきに出会う、親しみのある境内

並んだ石仏の前では、視線が自然に低くなります。大きな本堂を仰ぐ時間とは違い、一体ずつの輪郭や表情に目を凝らす時間です。風雨を受けてきた石の肌には、金色の紋とはまた異なる静かな存在感があります。武将や藩主の名前だけでは語り切れない、人々の供養や願いの積み重ねを感じさせてくれました。

境内で目を引くたぬきの姿には、思わず表情が緩みます。更北地区住民自治協議会の見どころ案内でも、長徳寺は「たぬきときつね伝説」の舞台として紹介されています。歴史の記録だけでなく、親しみを込めて語られる昔話もまた、地域とお寺を結ぶ大切なものなのでしょう。今回のたぬき像の写真は、厳かな本堂や家紋の話の合間に、境内のやわらかな一面を伝えてくれます。〔更北地区住民自治協議会・青木島の見どころ〕
紋を見上げ、足元の祈りを見つめて

境内の石碑には、煩悩を抱える凡夫である自分を見つめ、念仏へ向かう言葉が刻まれています。家紋から歴史を考え始めた散歩でしたが、最後に心に残るのは、こうした人のあり方を問いかける言葉でした。強い武将や立派な人物だけではなく、迷いや弱さを持つ私たちが足を運ぶ場所。そのことを、石碑は静かに思い出させてくれるようです。
三つ葉葵と六文銭が並ぶ理由には、まだ確かめたいことが残りました。それでも、川中島の戦乱、松代真田家の歩み、町田氏と須坂の縁を知ることで、同じ風景が少し違って見えてきます。長徳寺は、身近な場所から信州の歴史をたどり直す、よい入口になりました。
屋根の小さな紋が、土地の大きな歴史へと導いてくれる。
足元の石仏は、名もない日々の祈りを思い出させてくれる。
そんな二つのまなざしを大切に、これからも信州の風景を歩いていきたいと思います。
訪問・撮影:2026年9月7日/城住山光明院長徳寺(浄土宗)/長野県長野市青木島町大塚500番地イ。写真8点・動画2点。寺院は信仰と供養の場です。参拝や撮影は現地の案内に従い、法要やお参りの方への配慮を大切にしてください。
